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1986.3.10 Letter to the Parents 25 「たとえ 一人でも(キリスト教講演会より)」  古屋 安雄(文・有馬 平吉)

 3学期のキリスト教講演会は、去る1月29日、ICU大学教会牧師・同大学教授の古屋安雄先生を迎えて行なわれました。<たとえ一人でも>と題された今回の講演は、生徒・教員ともに深い感銘を与えるものでした。以下は今回の講演の要約です。 (文責 有馬)

 日本人は例外者を仲々認めようとしません。皆が同じことをし、同じことを考え、同じような人間になりたがる。全ての人が同じことをしなければならないように考えて、例外者を認めようとしない。そこで、少しでも他の人とちがった考え方をし、異った行動を取ろうとする人がいると皆から、おかしい、変わっている、と言われ、仲間はずれにされてしまう。今問題になっているいじめの問題も、このように例外者を認めようとしない日本人の画一主義的なあり方に深く関わっています。
 聖書の中に、99匹の羊をのこしても1匹の羊を探し求める羊飼のことが書かれてありますが、本当の民主主義とは、単にmajorityで決めてゆくということでなく、99人に対する1人でも、その1人を尊重し、大切にすることです。ICU高校をつくる時、文部省のある局長さんが、中国に昔からある話をある物に書いていました。それは、1つ眼のサルの群に入ってきた2つ眼のサルの子が受け入れてもらえず、石で片眼をつぶして1つ眼になったら仲間に入れてもらえた、という話です。皆さんも経験していることでしょうが、日本人が外国に行き、せっかく2つの眼をもって帰ってくると、おかしいよ、と言われて仲間に入れてもらえない。そのためせっかくの2つの眼をまた1つ眼にして仲間に入れてもらおうとする。そのような画一的な人間を作るためにでなく、一人一人を本当に大切にする教育をしようとして、このICU高校は生れたのです。日本ではせっかくの高度な教育を与えながら、結局は画一的な人間をつくる、同じような人間を作る教育にしかならず、そこでは例外者が育ちにくい。
 皆さんは、一体どういう人間になろうとしているのですか?99人の人が賛成しても、ぼくは反対です、と言えるような、真に主体的な個性が確立している人間になるかどうか;<たとえ 一人でも>正義と真理を探求してゆく人間になるかどうかが問われているのです。

 15年前、私がインドネシヤに行っていた時、時の田中角栄首相の訪問に対して大変な反日運動が起りました。日本人は当時、Economic Animalと呼ばれていました。インドネシヤの文化や伝統や宗教には一切の興味を示さず、ただ儲けのことだけに関心を持ち、お金を神として崇拝する信者のようにしかふるまわないのが当時のインドネシヤにいる日本人でした。しかし、同じ経済活動をしているアメリカ人やオランダ人はそう呼ばずに何故日本人だけそう呼ぶのか、と私は彼らに尋ねました。彼らは全てのアメリカ人がそうではないし、全てのオランダ人はそうではない。しかし、日本人は皆例外なくエコノミック・アニマルだというのです。ここにも日本人の、正しい悪いでない、皆がやるから自分もやる、という同じ考え方が見られます。皆がやれば悪いことでもやる。多数の人には反対できない。それが正しいかまちがったことであるかよりも、人の顔色を見、まわりの「空気」に従っていつも動く日本人。一人の例外者も認めようとしない日本人。
 しかし、ここに一人の例外者であった日本人のいたことをお話します。私はフィリピンの大学で教えていた時、父や息子や夫など日本人に戦争中殺された多くのフィリピン人に会い辛い思いをしました。ところが、そのような中で、何人かの人から、「しかし、全ての日本人の軍人がそうだったわけではない」という話をききました。それは戦後フィリピンの初代大統領マヌエル・ロハスの命の恩人であった日本軍の神保大佐でした。ロハス氏の人格に接していた彼は周りの圧力をはねのけてまで救ったのでした。あとで、敵味方を超えて、誰をも同じ人間として接することのできた神保大佐には、クリスチャンであった母親の影響の大きかったことを本人のロから聞きました。
  <たとえ一人でも>。このことを皆さんに深く考えて欲しくて、今日はお話しました。

 

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