ICUHSの”C”はChristianity

1998.3.14 えいれーねー 73号 「卒業していく君へ」 校長 桑ヶ谷 森男

 F君、今、君はこの三年間を振り返って、この学校で何を得たのか、自問しているのではないだろうか。この問いは、君の自問に止まらない。学校へ向けられた問いでもある。この十年余り、卒業生の歩みをたどりながら、この問いは私の胸の中に消えることはありませんでした。おそらく、これから後も、すべての教師の姿勢を支える問いかけになるでしょう。1期生T君からもらった今年の年賀状には、「私も最近ICU高校で受けた異文化の洗礼が自分の仕事に生かされているかなと感じております。20年かかりました。」と書いてありました。在学中一般生として、帰国生との“共学・共生”に内心難渋していたT君は、日本で修士課程を終えてからアメリカの大学院に学び、現在、神戸の大学でダイオキシンを主とする環境毒性学を教える学究の徒です。T君にかぎらず、この学校での暮らしと学びが、卒業生のなかで熟成していくには、時がかかります。この学校で戸惑ったり、不完全燃焼に終わったり、不器用な行動をとった卒業生のなかには、画家の熊谷守一氏のことば「上手な者は先が見えてしまう。かえって下手のほうが、可能性があり、スケールが大きくなる」を頷かせるものがあります。
 戦争と貧困の時代から平和と民主主義そして豊かさの時代へと生きてきた私の世代には、未来への楽観主義がありました。しかし、君たちを待ち受けている21世紀は、100億に達する世界人口のなかで減少しつづける日本人口、高齢化社会、多民族社会化する日本…など初めてぶつかる問題も多い。素朴な楽観主義は持てません。緒方貞子(国連難民高等弁務官)さんは「この不透明な時代にこそ、若者は“好奇心”をもって問題を求め、積極的に疑問を出していく心が必要だ」と訴えています。困難な事態が、新しい力を引き出します。そして、創造的なものを生み、問題を解決していきます。頼もしいことに、「何でもみてやろう」「何でもしてみよう」という姿勢は、ICU高校の卒業生に色濃く見られます。クアラルンプール日本人学校から入学して来た11期生のKさんは、Yale Universityの大学院で“戦争と平和、開発と民主化”に焦点を絞って勉強を続けています。ICU高校が彼女の方向づけのきっかけとなったこと、「国際政治は複雑で、平和研究の現実は厳しく、時には落胆してしまうときもあるけれど」このテーマに生涯かけて取り組むことを、毎年クリスマスカードで書き送ってくれます。
 F君、この学校生活で何を得たかの答えは、保留にしておこう。世界にはさまざまな課題が君を待っています。新年のスピーチで取り上げた「夜と霧」の著者ビクトル・フランクルが言うように、「私たちが<生きる意味があるか>を問うのではなく、人生こそが問を出し私たちに問いを提起し…私たちは問われている存在なのです。」君が人生にどんな答えを出していくか、じっくり待ちます。君は法律を専攻したいそうですね。政治・経済の世界に蔓延する腐敗、国際化が進む社会における人権問題、平和・福祉・民主主義の日本国憲法の空洞化、産業と深刻化する公害等々、今私たちをとりまいている状況を考えても、君が高い志をもって、勉強していかれることに、期待しています。「20世紀を通じて、民主主義国家の間には戦争はなく、戦死もゼロであった。民主主義国間には不戦構造が存在する」という猪口邦子さんの指摘も、改めて心に留めておきたい。ICU社会科学研究所・上智大学社会正義研究所主催のシンポジュウム記録「歴史の共有 アジアと日本」〔明石書店〕も、私たちに大切な問題提起をしているので、読んでみてください。歴史はすべての勉強の背景になるものですから。

 

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